見詰め合うと

 まったくもって、僕は電車通学に慣れない。今日も朝の雑踏を掻き分け電車に乗り込み、偶然空いた席に溜息混じりに腰を下ろした。大学に着くまで座れずにいることも少なくないのでラッキーだなと思いながら、いつもの様に僕の目の前で腰をさする御爺さんを視界に入れない為に目を閉じた。わざとらしい人には絶対に譲ったりはしない、座りたければ努力をしろ。これは僕の信念であり生き様だ。
 僕はいつの間にか眠っていたらしく、アナウンスが降りる駅のひとつ前であることはやる気なく伝えていた。ちょっと焦った。よく寝過ごしてしまうのだ。起きておかなければと手を顔に持っていこうとして違和感に気づいた。左手が動かない。不思議に思って顔を向けると、隣で溺れてしまうんじゃないかと心配になるほど鞄に突っ伏して眠る女の人に僕の左手は握られていた。
 僕は焦った。先ほどのとは似て非なる汗を背中一杯にかいていた。やばい、僕は無意識の内に痴漢をしてしまっていたのだろうと思った。痴漢で捕まると就職に厳しいと風の噂に聞いていたので、とにかく早く手をどけなければと思った。だが、よく見ると手を握っているのは彼女の方だった。僕があたふたと重ねられた女性の小さくて暖かい白い手に触っていいものか考慮している内に女性が目を覚ましてしまった。
 僕は自分の人生がここで終わることを覚悟した。
 女性は突っ伏したまま首を捻ってこちらを向き、顔を半分埋もれさせたまま、大トロもたじたじなくらいにとろけた瞳を僕に向けた。僕らの視線が絡み合った。経験はないが、大人のキス並みに結びついていたと思う。普段の僕であれば、誰かと目が合おうものなら音速の勢いで視線をずらし、見ていない見ていないと呪文を唱え続けているところであったが、僕は彼女から目を離せなかった。
 衝撃だった。ものすごく可愛かった。こんな素敵な人間が実在していいのかと大衆の面前で大演説をしたくなるほど可愛かった、が僕にそんなことをする度胸は無い。しかし、ここ最近というか2,3年、生身の人間を見て「あ、あの子かわいい」とか「おお、なかなかの美人だ」とか失礼なことを思うことはあっても本気で見惚れてしまうことは無かった。そもそも、僕のような底辺な輩に女性を見る権利など有りはしないのだ。というわけで、本当にかわいいと思ったのは久しぶりであった。
 身体の底から熱が生まれ、握り合った手のひらも火照っていた。汗をかいてやいないか心配だった。
 起きたんですね、と彼女が薄く笑った。どうして僕の手を握っているのか尋ねようとすると、すべてわかっているとでも言いたげに彼女は空いている方の手も重ねてきた。
「一人ぼっちで、寂しそうにしていたので」
 正直、この人頭がおかしいんじゃないだろうかと疑いたくなった。が、彼女は自分は正しいと確信しているようだった。
 アナウンスが到着駅を告げた。僕が降りる駅だった。名残惜しかったが僕は手を振りほどき立ち上がった。別れ際に、また会えますか、と聞くと
「あなたがそれを望むのなら」
 とだけ言った。
 次第に加速し遠ざかる彼女を見送りながら、僕はホームでひとり再会を確信していた。


*今日の日記はほとんど実話である。