桃源郷

 朝起きると黒塗りの車が自宅前に停められていた。運転席にいるグラサンをかけた男がチラチラと我が家の窓を覗いていた。どうやらストーカーらしい。警察に通報しようと冷静に電話を取ると、受話器からは音が聞こえなかった。
 しまった、電話線を切られた!
 相手は相当の手錬であることが容易に予測された。が、携帯電話全盛期の昨今である。僕もその例外ではなかった。普段は電源を切りっ放しの携帯であるが、こういう時には役に立つではないか。僕の中で携帯の株が値上がりした。警察に保護を頼もうと通話ボタンを押し110番をプッシュすると、聞き覚えのあるアナウンスが、「電波の届かない場所に…」
 しまった、妨害電波だ!
 相手は相当な実力者であることが明確になった。そもそも携帯の会話は盗聴され易いではないか。危ないところであった。むしろ妨害してくれて助かった。僕の中で携帯の株がライブドア株の如く暴落した。しかし暴落とはいっても、元の位置に戻っただけであった。
 そこで、はたと気がついた。今日は組長殿とお買い物に行く予定だったのだ。そう思い出して見てみれば、運転席の人は友人のTAKA氏であった。彼が電話線を切り、妨害電波を駆使して僕の外部との連絡手段を遮断したのは、すべては組長殿の安全を考えてのことだと合点がいった。僕は兎角、重要なことを電話で口頭に出しやすい癖があるのだ。もし、組長殿を付け狙う悪の組織に情報が漏れれば、取り返しのつかないことになりかねない。僕はTAKA氏に感謝した。
 TAKA氏は普段からこういう気配りのできる漢であった。そのため彼は組長殿と対等な会話ができるほどの地位に登り詰めていた。いつかはTAKA氏のようになるのが僕の夢であり目標であった。
 その後、組長殿とエイト社長を迎えに行き桃源郷の店屋で買い物をした。組長殿は裏地がワインレッドの男らしい黒ジャケットを購入した。さすがは組長殿である、センスが良い買い物であった。
 僕もネクタイがセットになっているシャツとナイキの靴を買った。ネクタイを緩く結んだ格好が、以前から格好良いなぁ、と思っていたのである。TAKA氏もシャツを買ったようだった。社長は何を買ったのかを見ていなかったので分からなかった。
 帰宅後、母様に買ってきたものを物色された。自分的にはホクホクな買い物だったので自信があった。ネクタイとセットになったシャツを発見した母様に「あんた、路線を間違えてるよ」と言われた。もう着れないと思った。