それ違うなんかちがうきっとちがうおれはみとめない

 みんな*ばいいのに。みんな*してしまおうか。みんな*すれば楽になるのにな。


 負の感情が支配するとき、僕は全てを否定的に考えます。
 普段の僕は、こんな破壊的な考え方をすることを避けようと、大らかな自分を演じます。演じることで、本当に懐の大きな温和な自分を得ようと努力します。努力で形作る温厚な性格が張りぼてに過ぎないことは、自分自身忘れるようにしているのです。
 世界を受け入れる、と言ったら大げさですが、何であろうとそのまま受け入れてしまいたい。もしかしたら、それは自分にとって不快な事柄かもしれなくても、自分を排斥して考えたときその事象の意味が見出せます。それはとても面白いことかもしれません。
 例えば、何でも思い付いたことを命令して僕にやらせる人がいたとします。ええ、あくまで例え話です。もちろん実在の人物や僕の経験ではなりません。つまり、バイト先の先輩のことなんかでは断じてありえません。
 そうですね、ここでは僕を被害者、その人を加害者とでもしましょうか。
 加害者は被害者の僕にとっては色々と煩わしい限りに違いありません。主観でみれば面倒ばかり押し付けるだけの存在なのですから。
 では、そこから“ボク”を抜いたらどうなるか。
 客観で観ることにより、加害者の目線が想像されます。何を考え、何をして、何をしようとしているのかが、想像ではありますが分かってきます。すると、同じ局面であっても先ほどとは違う解釈ができるわけです。加害者から観れば、被害者は被害者ではありません。加害者の行動にも意味があるんですから。
 このとき、加害者に悪意を考えてはいけません。それでは被害者は被害者でしかありえなくなってしまいます。そんな考え方は、そもそも“ボク”の抜けていない偏見な考えですし。
 こうして僕は自分がそんなに被害者ではないのかもしれないと思えるかもしれません。
 そこでさらに目線を変えます。
 今度は“ボク”も“その人”も抜きます。
 神様目線とでも言いましょうか、俗に言うチェス盤を見下ろす視線です。
 いいつける人が何かを考えて、言いつけられる人が現れて言いつけられる。
 それぞれの思惑があって、いいつけられたほうは釈然としない状況になりました。
 ……傍から見れば馬鹿馬鹿しい光景です。何をそんなに怒っているのか、という感じです。
 ここに至ると、僕はいつも笑えてきます。自分を怒らせる状況も、こうして眺めて観ればなんてことない、入れ違いみたいなものです。意味も分からず怒る人間は、意味を分かっている人間にとっては笑いのネタです。大人が子供の行動を微笑ましく眺めている、そんな笑いが込み上げます。
 こうして、僕は温厚に生活を送っているつもりです。温厚な自分を、視線の切り替えや想像力をもって創り上げるのです。本物の包容力をもった人には到底及ばない、偽者の心ですが、僕は僕なりに激情しない人を出来ているつもりです。
 ええ、そんなのは唯の理想像に過ぎなくて、人から見れば僕ほど短気な奴はいないと思われているでしょうけど。僕なりには頑張っているんです。
 だから時々疲れるんです。何も考えないで、何もしないで、もう全部が嫌になるときが来ます。皆死ねばいいのにと思います。でも60億殺すのは大変です。疲れることはしたくないです。どうやればいいのか考えたくもありません。だったら、1人殺せば済んだよなーとか考えます。楽なほう楽なほうというのが、腐の僕の持論です。
 気がつくと首をくくる縄を探したり、先日買ったばかりの包丁の刃を指でなぞったり、樹海に行くための路線をパソコンでしらべたり、大安仏滅をカレンダーで確認したり、思ったことをパソコンに打ち込んだり、窓辺のサボテンの棘を撫でてみたり、天と話したり、持論を日記に長々とつづってみたりしているうちに元気になりました。読み返すと恥ずかしいこと書いている気がしますが、おおよそ考えていることに間違いはないのでこのままアップします。いやはや、本物の包容力のある人間になりたいものです。なりたいと思ってなれるものではないのは分かっているんですけどね。な、ぐらs(ry